忍者になったつもりで参拝に根來寺へ
忍者といえば誰を想像します? 「黄門さまにつかえてた弥七」実在したかどうかは別にしても、弥七は根来衆です。徳川家につかえていたのが根来忍者と呼ばれる人たちです。
もともとは江戸時代の前、戦国時代の争いの中、こうした宗教施設を守るための僧兵だったと考えられています。ただ根来忍者の来歴は諸説あり、楠木正成についていた楠流忍術を使う忍者と言う説もあります。これだと楠木正成を祀る神戸湊川神社に水戸光圀が正成を讃える詩を詠んだ黄門さま達筆の大きな石碑があるのがへんに納得できます。根来衆の忍者については、下記↓に。
根來寺は今では粉川沿いの昔のお寺という佇まいですが、戦国時代の最盛期にはその寺領地だけで葛城山一帯の40万坪に近い、と言っても分かりにくいので、当時の石高で言うと70万石。これは武田信玄が70万石の武将ですから、その規模の大きさがわかると思います。
そうした第一線級の戦国武将と同じ石高を持っていたお寺ですから、寺領にいた人たちも多い。その中に僧兵がいます。お寺を守る武装部隊ですね。僧兵といえば武蔵坊弁慶がイメージしやすいですね。ここ根來寺にも僧兵が数万人いたと記録されています。
根來寺周辺には桜がたくさん咲いていました
こうした僧兵は何をしたかというと、織田信長の天正5/1577年紀州征伐に傭兵として参加しています。根来忍者が鉄砲隊だったという説がありますが、それはこの時に鉄砲を使ったからですね。天文12/1543年に種子島に鉄砲が伝来し、日本の技術でそれを大量生産。このころ世界で最も鉄砲を持ったいた大武器国が日本だったのです。だから鎖国していても、当時日本が世界で一番戦力が強い国だった、だから他の国から攻められなかった。ただ当時からも中国大陸から攻めてはきましたが。
根來寺の僧兵は天正12/1584年豊臣VS織田・徳川の小牧・長久手の戦いで、徳川側についたためにのちに豊臣秀吉による紀州征伐で根來寺は焼け野原になり壊滅状態になります。この時なぜ織田・徳川側が軍を引かざるおえなかったか。それは天正13/1585年11月に中部地方で起こった天正大地震による大飢饉が原因だと今では言われています。
国宝の大塔の周り約7000本の桜が覆う
日本最大の木造の国宝大塔を有する忍者の里根來寺。「さくら名所100選」の一つで、境内にはソメイヨシノやヤマザクラをはじめとした約7000本といわれる桜が美しさを競います。シーズン中には大塔と大門のライトアップも行われます。さくらの本数は約7000本で、ネゴロザクラ、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、ボタンザクラ、シダレザクラが咲き誇ります。
忍者が好きな子どもを連れて木の葉隠れのお花見
生き残った根来衆は伊勢に逃れたのち、徳川家康に招かれたと言われています。手裏剣や武術を駆使し、そして運動能力抜群、男の子なら誰しもが憧れますよね。私の子どももNinja大好きでした。絵に描いてましたから。
そんなわけで、忍者の里である根来寺を訪れたのです。ただ遠かった。青春18切符を使い、JR和歌山線「岩出駅」からひたすら根来川沿いを約6キロ歩いて行ったのです。田園風景の中を歩きながら「忍者もこの道歩いたんやろかぁ」と言いながら。
交通アクセス
根來寺 〒649-6202 和歌山県岩出市根来2286 電車 JR和泉砂川駅からバス根来寺行き 他 アクセス方法
満開 2020年4月5日
根来衆忍者については諸説あり、伊賀忍者が根来・雑賀に移り住んだ説、熊野三山の白雲流忍術が修験者によって根来寺伝わった説、真言宗の山伏が使う呪術や山伏兵法を操るのが根来忍者となった説などがあります。